太平洋戦争「沖縄戦争」の真実を知る

太平洋戦争末期、住民の4分の一にあたる10万人が犠牲になった沖縄戦。激しい地上戦となった沖縄の人は、二度と戦争を起こしてはならないという意識が強いです。しかし戦後70年が経過し「沖縄戦」を知る人も減りました。「沖縄戦」を勉強し、戦争について考えましょう。

太平洋戦争「沖縄戦争」の真実を知るのイメージ

目次

  1. 「土人」発言
  2. 「沖縄県民斯く戦えり」太田実海軍中将の電報が語る沖縄戦
  3. 数字が物語る沖縄戦の凄さ
  4. 「日本兵は住民を守ってくれませんでした」 戦争経験者が語る沖縄戦
  5. 沖縄戦開始までの太平洋戦争の状況
  6. 一撃講和
  7. 太平洋戦争末期の両軍の沖縄戦略
  8. 沖縄戦の特徴
  9. 沖縄戦の戦闘
  10. 戦争に巻き込まれた住民
  11. 戦争マラリア
  12. 沖縄戦は太平洋戦争にどう影響を与えたか
  13. 沖縄戦の歴史認識の論点
  14. 太平洋戦争終結後の沖縄
  15. 終わらない沖縄の戦争
  16. 沖縄戦を描いた作品
  17. 沖縄戦を知る観光地
  18. 戦争を繰り返さないために

「土人」発言

筆者が沖縄に対する言論の変化を感じたのは、2016年10月に沖縄の北部基地返還に伴う、東村の高江地区でのヘリパット建設工事の警備にあたる、大阪府警の機動隊員が、抗議活動をしていた芥川賞作家の目取真俊さんに発した「触るなボケ、この土人が」という発言などがなされた「翌日」でした。

大阪府警の機動隊の発言に対し、松井一郎大阪府知事が機動隊員を擁護する発言をしました。それに対し多くの世論がそれを後押ししました。そこまでは予想できたことであり、特に驚くことはありませんでした。

ところが、その記事に対し「中国や韓国などの国の工作員が抗議している」「カネを貰っている『プロ市民』がやっている」という言説がネットを中心に蔓延し、作家や評論家のような人もそれに近い記事を書きだしていたのを目にした時は、正直脱力感を感じました。
沖縄の歴史を学校の教科書レベルで知っていれば「なぜ沖縄の、特に年配者が基地に反対するのか」は明白です。

「日本人であることが誇りを持てる教科書を」という運動が盛んになってから20年以上経過し、国内世論にも大きな変化が起こっていますが、それでも「沖縄戦での集団自決は軍の命令か否か」という議論こそあれど、このような言説は、中国が尖閣諸島の領海侵犯を行うようになった最近の事ではないでしょうか。ましてや韓国は米国と同盟関係にあり、沖縄のアメリカ軍基地に反対する理由など見当たりません。

つい最近までは、いわゆる「革新」政党だけでなく、自民党の歴代首相や政治家の多くは、タカ派ハト派に関わらず沖縄と向き合ってきました。少なくても沖縄の人が何故基地に反対するのかを理解していましたし、発言や行動も慎重でした。

しかし今は「沖縄が外国勢力に支配された」島のような言説が公然と飛び交う時代です。
もしかしたら沖縄戦の歴史は、本州では無かったことになっているのかもしれません。
太平洋戦争末期、日本軍とアメリカ軍を主体とする連合軍が激しい戦闘を繰り広げた沖縄戦について再認識してみましょう。

「沖縄県民斯く戦えり」太田実海軍中将の電報が語る沖縄戦

「沖縄県民斯ク戦へり。後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

1945年6月6日に太田実海軍中将が海軍次官宛てに発信した電報でのレポートは、陸海軍共通の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉は一切使われておらず、ただただ沖縄県民の敢闘奮戦、艱難辛苦のさまを伝え、「沖縄県民はこのように戦ってくれた。彼らに対しては、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする」と締めています。

その7日後の6月13日に太田中将は自決しました。

沖縄県民が多くの犠牲者を出しながら、軍と一緒になり、戦争を戦ったことを現場の中将が認めていたことを示す文です。

しかし沖縄は終戦後に米国の植民地支配下に置かれます。

出典: https://ja.wikipedia.org

太田実中将

数字が物語る沖縄戦の凄さ

死者数・・・アメリカ軍兵士12,520人、日本および沖縄の徴集兵107,000人以上、沖縄民間人10万人以上

アメリカ軍(連合軍)の被害…艦船34隻撃沈(ほとんどが神風特攻)368隻破損。
              飛行機763機撃沈
              海軍死者数5000人、海兵隊及び陸軍死者数7000人、非戦闘員死者数26000人
              ストレスによる戦闘神経症26211人
 
日本側の被害・・・・・・・・投降か捕虜10755人
              航空機7830機と戦闘艦16隻撃沈 
              軍民合わせた死者数20万人以上      

「日本兵は住民を守ってくれませんでした」 戦争経験者が語る沖縄戦

出典: http://trendnewwave.com

故・大田元沖縄県知事

出典: http://iwj.co.jp

島袋文子さん

戦争経験者は後世に伝えるべく、新聞社のインタビューで自らの体験談を語っています。

今はうっそうと生える木々も当時は1本もなく、敗残兵や住民らが身を潜める裸の岩原や壕に、海から上がった米軍の水陸両用戦車の大群が次々と火炎放射攻撃を浴びせていったという。 1945年6月、首里から撤退した守備軍司令部と主力部隊は南部へ後退、摩文仁のある喜屋武半島は、3万人の兵と10万人を超す住民らで溢れかえった。米軍は半島を包囲し、軍民の区別なく激しい攻撃を続けた。 「最後には、海岸から来る戦車と反対側の集落から来る戦車に挟まれて、みんなが海岸のところ一面に追い詰められました。岩間に隠れていた人たちは逃げ場を失い、どうにもならずにみんな海に飛び込みました。私もすっかり疲れきっていたけど海に飛び込んで、意識を失ってしまいました。気がついたら胸まで潮に浸って海岸に倒れていた。何日倒れていたのか今でも分かりません」

大田元沖縄県知事

「沖縄の住民が食料を持っていると、兵隊たちがすぐに奪い取っていったんですね。『俺たちはわざわざ遠いところから沖縄を守るためにやって来た。だからお前たちは食料を出せ』と言って。出さないと射殺して奪うということもありました。 そして沖縄戦では、住民は沖縄語による会話が禁じられていましたから、標準語を話せない高齢者たちが大勢、スパイだとして日本軍によって殺害されました。一番みじめだったのは、壕の中には赤ちゃんを抱っこしている女性たちもいるわけですね。そうすると、小さい子どもが泣くと、兵隊は『それを外に出せ』と。出さないと銃剣で刺殺したりしました」

大田元沖縄県知事

目の見えない母に『お母さん、ここは人が死んでいるからまたいでください』と教えながら死体をまたいで歩かせるんです。腐敗して体内にガスがたまって、パンパンに膨れた死体を踏まないように進むことは大変でした。艦砲に当たる怖さより、死体を踏むことが怖かった。

島袋文子さん

ある晩、弟が『水が欲しい、水が飲みたい』と言うので、真っ暗な中を探し回り、砲弾跡にできた水たまりを見つけて、その水を弟にも母にも飲ませました。私も飲みました。 翌朝、明るくなると、水たまりには住民や日本兵の死体が浮いていました。水は死んだ人の血で真っ赤に染まっていました。暗闇の中で汲(く)んだ水は死人の血が混ざった水だったのです。そのことは母にも弟にも言いませんでした。 糸満に帰る途中、5歳ぐらいの子の手を引いて、もっと小さな子供をおんぶして逃げている女性がいました。手には荷物を持っていました。そこへ艦砲弾の破片が飛んできて赤ちゃんの首をサッと切り、首が飛んでいきました。頭がなくなっていました。真っ赤な血が噴き出しました。あの光景は今でも忘れられません

島袋文子さん

引用した2人が語った共通の言葉が以下のものでした。

日本兵は住民を守ってくれませんでした。

沖縄戦開始までの太平洋戦争の状況

真珠湾奇襲から始まり、攻勢だった日本軍もミッドウェー海戦の敗北から戦況が一転し、1944年7月にはサイパン島が陥落。これにより日本本土を直接空襲する足がかりをアメリカ軍は得ました。
次にアメリカ軍を中心とする連合国は、フィリピンのレイテ島を攻略し、1945年3月にはルソン島や硫黄島の攻略に成功し、日本本土への攻撃の手はずが整いました。

一撃講和

サイパンが陥落し、敗戦ムードが出てきた状況下、政府や軍部には「ここでひと叩きできれば、終戦に持って行く動機がつかめる」という考え、いわゆる「一撃講和」という考え方で一致し、昭和天皇もそれを支持しました。

作戦の立案を行った陸軍作戦部長だった宮崎周一中将は、後に「ここでひと叩きできれば、終戦に持って行く動機がつかめる」と狙いを語った。いわゆる「一撃講和」という考え方だ。 古川隆久・日大教授(近代日本政治史)は「日本国家のメンツがあったと思う。建て前上、負けたことのない国が初めて負ける時に全面降参では、全てを失ってしまうかもしれない。無策のまま降伏となれば、自分たちが崩壊してしまうということを一番恐れていたと思う」と解説する。軍内部の主戦派を抑えるためにも、日本は一撃講和に傾いていく。 一撃講和は、昭和天皇も支持していた。昭和20年2月14日、近衛文麿元首相が宮中に参内し、昭和天皇に「最悪なる事態は遺憾ながらもはや必至なりと存ぜらる。一日も速やかに戦争終結の方途を構ずべきものなりと確信する」と言上。それに対し、昭和天皇は「もう一度、戦果を挙げてからでないと、なかなか話は難しいと思う」と述べたという。

太平洋戦争末期の両軍の沖縄戦略

アメリカ軍を中心とする連合軍

アメリカ軍は、沖縄本島の地理を、太平洋戦争における航空基地と泊地として、日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点と見ていました。

戦力は精鋭部隊を揃え、装備も火炎放射器装備の戦車、暗視スコープ付きの狙撃銃、近接信管の野砲砲弾、対砲兵の音波探知機など新型兵器が多数配備されました。また大量の空母、艦船、艦載機を投入し、爆撃機や戦闘機も用意しました。イギリス軍も艦隊、艦載機を投入しました。
兵站もレイテ島やマリアナ諸島に確保しました。

アメリカ軍情報部は沖縄本島の日本軍の兵力を55,000人~65,000人と少なく見積もり、沖縄攻略作戦は1カ月前後の短期作戦と想定していましたが、沖縄戦では思いのほかの抵抗に大苦戦することになります。

日本軍

守備の要としていたサイパン陥落後、レイテ島やルソン島の『フィリピンの戦い』では、やむを得ずに人肉食を行って露命をつないだ兵士もいたといいますが、約40万人以上もの大兵力を注ぎ込んだフィリピンの戦いでは、約33万人以上もの兵士を飢餓で失いました。本土防衛の最終防衛ラインとされていた『硫黄島(いおうじま)』が陥落すると、いよいよ本土に対する空襲が本格化します。


大本営は対米最終決戦の一撃や本土防衛のためと、天皇(国体)を守るための長野や吹上御所の防空壕施設の建設のため、兵力をできるだけ温存し『本土防衛のために時間稼ぎの拠点』、いわゆる「捨て石」として用いるような作戦を実行に移しました。
できる限り延命し、本土決戦を遅らせる作戦です。
沖縄の兵力の再配置を整えますが、数や武器など圧倒的不利な兵力で連合国軍と対峙していきます。

これが沖縄戦です。

沖縄戦の特徴

沖縄戦の特徴については、沖縄市役所のページに簡単にまとまっていますので紹介いたします。

1. 全島要塞化

住民総動員―飛行場建設や陣地壕づくり。「一木一草といえどもこれを戦力化すべし」

2. 戦略持久作戦

本土上陸を遅らせる時間稼ぎの作戦、捨て石。

3. 軍民混在の戦場

日本兵による壕追い出し、食糧強奪。砲弾は軍人と住民を区別しない。

4. 住民虐殺

「軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間謀とみなし処分す」 スパイ嫌疑により虐殺(赤松事件、今帰仁事件、本部校長事件など)

もちろんアメリカ軍兵士の火炎放射器による掃討作戦での虐殺もありました。

5. 集団自決

壕追い出しと避難拒否、投降阻止 日本軍の駐屯-座間味、慶良間、読谷、沖縄市、南部など

そしてその結果の6.米軍支配の長期化となります。

分かりやすい動画を見つけましたので、以下のリンクも参考にしてみてください。

3分で知る沖縄戦 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

この戦争は、沖縄県民はもちろん、勝者となったアメリカ軍などの連合軍にも多大な被害をもたらしました。

沖縄戦年表

参考資料として。このツイートをご紹介いたします。

沖縄戦経緯マップ

出典: http://www.okinawa-sen.go.jp

沖縄戦の経緯

この地図で、どのように沖縄戦のラインが南下していったか読み取ることができます。

沖縄戦の戦闘

太平洋戦争の中でも、激戦となった沖縄の戦闘を見ていきましょう。

慶良間諸島の戦い

慶良間諸島は、沖縄本島南部の那覇市から西に約40kmの東シナ海に点在する、大小20余りの島からなっています。
1945年3月、グアム島を発進した米軍が沖縄諸島に到達し、最初に攻撃をしたのが慶良間諸島でした。23日に空襲が始まり、26日には慶良間諸島に上陸しました。瞬く間に全土を制圧し「すべての行政権,司法権を停止し,最高行政の責任は占領軍司令官に帰属」という「ニミッツ布告」が交付されました。

当時は皇民化教育が徹底され「鬼畜米英のアメリカ軍につかまれば女は犯されてから殺され、男はなぶり殺しに遭う」という考えが徹底されていたため、この戦闘で日本兵の抵抗も米軍の前には無力だということを目にした住民は逃げ場を失い、何箇所かに集まり、手榴弾、刃物、縄などで集団自決していきました。

沖縄上陸

4月1日の朝、アメリカ軍主体の連合軍は守備の薄い本島中西部から上陸を開始しました。6万人の兵士が一気に上陸。そして瞬く間に飛行場が占拠されました。日本軍は南北に分断されました。
日本軍は自ら飛行場を壊していたのですが、時間が無く不徹底でした。アメリカ軍は当日には修復、防空網ができました。
また前述の太田実少将率いる日本海軍は、アメリカ軍の囮作戦に引っかかり、基地が特定されてしまい、アメリカ軍の激しい空爆で特攻艇は壊滅しました。

菊水作戦

4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を開始しました。これを「国士」とされていた楠木正成の旗の文様から取った「菊水作戦」と名付けられました。
作戦は6月22日まで、断続的に実施されました。
海軍機940機、陸軍機887機が特攻に投入され、海軍では2,045名、陸軍では1,022名が戦死しました。
そのうち133機が「成功」、122機が「至近弾」を受け墜落しました。
第二次世界大戦におけるアメリカが喪失した艦艇の、実に7分の一にあたる40隻が撃沈。
その大半が「特攻」攻撃によるものでした。
アメリカ軍の戦死者は4,907名、負傷者は4,824名に上りました。
イギリス軍とオランダ軍にも数百名の死傷者が出ました。

大和沈没

日本海軍が建造した史上最大の戦艦大和は、沖縄戦では菊水作戦の囮の役目でした。
つまり大和に攻撃を集中させ、特攻機への迎撃を抑えることが目的とされました。
しかし、大和はアメリカ軍の高性能の魚雷の攻撃を幾度となく浴びて、その目的を達する前に、沈没させられてしまいました。

本土戦争の足掛かり 伊江島の戦い

4月16日にアメリカ軍は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に、飛行場とレーダーサイトを設置のため上陸しました。伊江島には、日本軍守備隊2,000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されており、激しい抵抗し激戦となりました。21日までに全島が占領されました。日本側は民間人多数を含む4,706人が戦闘により死亡しました。アメリカ軍は218人が死亡しました。生き残った住民は、島を追われ離島の渡嘉敷島へ移されました。
伊江島には日本軍の飛行場がありましたが、米軍の占拠を見越して破壊されていました。アメリカ軍は復旧作業を進め、設備を整え空軍を配備しました。

前田高地の闘い

前田高地の首里防衛線での闘いも激戦区です。
日米両軍に多数の死傷者を出し、ひめゆり部隊のいる野戦病院もキャパを超える事態に追い込まれました。

「ありったけの地獄を一つにまとめた」と表現される死闘では、両軍の兵士だけでなく、住民たちも巻き込まれ、浦添村の人口の44%にあたる4,412人が死亡し、一家全滅率は22%に上りました。
映画「ハクソーリッジ」の舞台となり、今では大勢の観光客が訪れます。

「シュガーローフ」の闘い

字安里(あさと)の北に位置する丘陵地帯に日本軍は ”すりばち丘”、米軍は "シュガーローフ” と呼ぶ場所がありました。ここに日本軍は兵力を投入し、米第6海兵師団と激しい攻防戦が展開されました。
この丘を突破されると、首里防衛線が制圧される可能性が出てくるため、重要な砦でした。

1945年5月12日から1週間に及び、1日のうち4度も頂上の争奪戦が行われ、11度も攻守が入れ替わるというという大激戦の末、米軍が制圧しました。
米軍は死傷者2,662人、1,289人もの極度の精神疲労者を出し、特に3名の大隊長が戦死、11名の中隊長が死傷しました。日本軍も学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出しました。

それ以後、米軍は首里への攻勢を強めていきます。

ちなみに、兵力では圧倒的に劣るアメリカ軍を相手にして、このシュガーローフで10日間も侵攻を食い止めた日本軍の戦術は、戦後の海兵隊の教本の中で「教科書通りの陣地防御戦術」として称賛されたそうです。

沖縄戦の要、首里防衛線の崩壊

圧倒的な兵力のアメリカ軍ですが、日本軍の必死の抵抗に遭い苦戦します。ナン高地、大名高地など結果的にはアメリカ軍が制圧しますが、艦砲や爆撃から野砲・迫撃砲・戦車による火炎放射に至るまであらゆる火器を集中しながらも、日本軍の抵抗で元の陣地に押し返されるような一進一退の攻防が続きました。
さらに5月21日から10日間続いた集中豪雨で、米軍は戦車も使えなくなり、強行突破しようとした部隊は4分の一にまで戦力を減らされました。
さらに夜間攻撃を仕掛けた部隊も、日本軍の怒涛の反撃を浴びて3日間も山頂に孤立し、救出時には204名の内156名が死傷していました。「チョコ・ドロップ」「コニカルヒル」を制圧した米軍でしたが、大量の戦車が撃破されるなど、被害の大きな戦いとなりました。

首里防衛線を突破したアメリカ軍でしたが、2ヵ月にも及ぶ戦闘で、アメリカ軍の死傷者は合計で26,044名、他に戦闘ストレス反応による傷病兵も陸海併せ14,000名という膨大な数に及びました。日本軍の抵抗で、沖縄戦に投入された戦車の57%が撃破されました。

そんな中、日本軍本部は首里から素早く撤退し南部に新たな陣地を作ります。
「長引かせる」という目的は達せられますが、それは新たな悲劇の始まりでした。

南部での戦い

奇跡的に30,000人の兵の移動に成功した牛島司令官率いる陸軍は摩文仁の丘で最後の抵抗に入りました。しかし、けが人や武器を持たない兵士が大半であり実質的な戦力は1万程度でした。

6月5日から撤退先の南部における戦闘が始まりました。当初は兵力で劣る日本軍でしたが善戦し、アメリカ軍を何度も撃退します。日本軍の抵抗は、米兵が立ち上がって攻撃できないぐらい激しいもので、大量の戦車が撃破し、ぬかるみで戦車の動きが止まるなど、米軍の動きを封じ込めました。アメリカ軍は1両の戦車に歩兵6名と弾薬を積んで前線に送りこみ、帰路に死傷者を積んで帰るという強引かつ乱暴な攻撃も始めました。米軍はさらに攻撃を強め、「ガマ」と呼ばれる洞窟に潜む日本軍に対し爆薬を投げ込み、入り口から火炎放射器で噴きつける。抵抗が続けば洞くつの上部から削岩機でこじ開け、爆薬を投じるという、いわゆる「馬乗り攻撃」が行われます。
これらの強引な攻撃でアメリカ軍は徐々に日本軍を追い詰めますが、アメリカ軍側も死傷者は1,050名にも登り、その死者の中には第22海兵連隊長のハロルド・ロバーツ大佐もいました。その後、最高指揮官バックナーも戦死しました。

この頃になると、日本軍は治る見込みのない多数の傷病兵に、毒薬注射や青酸カリを配布するなど自決を促すようになります。動ける兵であってもアメリカ軍に追い詰められると、捕虜になることを選ばず、手榴弾で自決しました。一日4,000名もの兵士が亡くなっていました。
この時代に、ひめゆり部隊の悲劇も起こります。爆弾や銃撃で多くの女子学生が亡くなり、10名が海に飛び込み自決しました。
軍の組織崩壊も始まり、それまで殆ど見られなかった集団投降するケースも増えてきました。
沖縄戦は最終局面を迎えることになります。

牛島司令官の自決で組織的な戦争終了

6月22日、牛島司令官らが立て籠もっている摩文仁の丘のガマにある司令部周辺にまで米兵が迫り、ガマのある山頂部も制圧されました。ガマの入口は陸側と反対側の海側に2ヶ所ありましたが、陸側は米兵の侵入を防ぐために日本側によって塞がれ、海側ではガマの司令部壕に対する連合軍の攻撃が激化し、勝ち目が無いと悟った牛島は自決を決めました。
公文書によっても切腹なのか青酸カリなのか異なる諸説ありますが、どちらにしてもこの牛島の自決をもって、組織的な戦争は終了しました。

牛島の裁可した「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」この最後の命令が、結果的に終戦まで多くの日本兵や沖縄県民を縛ることになりました。

牛島の人柄を示す話としては、敵の最高指揮官バックナーを戦死させた報告に歓喜が上がっている中、牛島はただ一人喜ぶこともなく、「惜しい人物をなくした」とつぶやき、哀悼の情を捧げるようにうなだれていたため、周囲が襟を正したという逸話があります。

戦争終結までの戦闘

牛島司令官の自決により、司令部が消滅した6月23日から、アメリカ軍は残存日本兵の掃討作戦に入りました。司令塔を失い、組織的抵抗ができなくなった日本軍の陣地をしらみつぶしに探しあて、一つずつ爆破し日本兵ごと生き埋めにしたり、戦闘中と同じく火炎放射器で焼き払っていきました。
この作戦で日本兵8,975名が戦死し、2,902名が捕虜となりました。米軍は7月2日に「沖縄作戦終了」を宣告しましたが、その後も日本軍の残存兵の抵抗が続き、各地で戦闘が続きました。
これは司令部の最後の命令である「悠久の大義に生きよ」が大きく影響しています。

また、7月28日には練習機の「特攻攻撃」で駆逐艦「キャラハン」を撃沈。8月15日の玉音放送の後にも、菊水作戦の指揮官が特攻出撃しています。

沖縄戦初期の前田高地から最後の南部での激戦において、常に最前線で戦ってきた第24師団歩兵第32連隊は、当初は約3,000名いた将兵を200名まで減らしながらも、終戦後の8月22日に米軍に伝えられるまで抵抗を続けました。

9月7日に日本軍の沖縄戦降伏文書に調印。ポツダム宣言受諾後1か月経過して沖縄戦が公式に終結しました。

戦争に巻き込まれた住民

沖縄戦の特徴は、兵士だけでなく、沖縄の市民も戦争に駆り出され、大きな犠牲を払ったことです。
どのように巻き込まれていったのかを見てみましょう。

疎開の遅れと禁止

沖縄戦が現実味を帯びてくると、政府より住民に対し避難の通達がなされました。
県民人口50万人のうち老幼病者が20万人以上いましたが、最終的に延べ船が187隻出され、沖縄本島から約6万人が九州など他島へ、宮古・八重山からは約2万人が台湾へ、計約8万人が疎開しました。

この疎開には制限があり、日本軍にとって「必要ない」者だけが選ばれました。
つまり戦闘力や労働力になる者の疎開は事実上禁じられました。

学童疎開以外の一般疎開の費用は自己負担であったことや、本土では「沖縄差別」もあったことなどあり、疎開には消極的な人も少なくありませんでした。

国から派遣されてきた泉守紀知事は疎開に消極的であったことも一因です。
(本人は出張に出たまま2度と沖縄に戻っては来なかったことが批判されます)

沖縄戦が近づき、遅ればせながらの『県外疎開』が本格化し、当初10万人の計画に対し、約8万人のみ疎開しました。

残りの42万の住民のうち8万人が、県内の北部に避難しました。
ですが、こちらの避難も老幼病者のみが対象となりました。
急な話だったこともあり、軍は移動手段を用意できず、老幼病者が食糧を担いで泥道を100キロも歩いて移動することになりました。
避難先は、十分な食糧も無く、マラリア発生地であったため、マラリアが蔓延しました。
ただそれでも北部避難した人の戦没率は7-15%と、しなかった人の半数に満たなかったと言われています。

沖縄戦から1か月経過し、取り残された住民にも島田新知事より避難命令が出されます。
13万人もの住民が南部に避難しました。
しかし、首里城が陥落し、軍が南部に撤退すると、3万の日本軍が南下してきます。
キャパオーバーの状況下、軍によってガマに隠れている住民が追い出され、食料を奪われます。

住民戦没者の半数以上が、6月以降にこの南部地域で死亡しました。

学童疎開船対馬丸沈没事故

日本郵船のT型貨物船の対馬丸は、沖縄本島に対し往路は軍事輸送、復路は疎開輸送で使われていました。
『対馬丸』にも高射砲を備え付け、砲兵隊員も乗っていました。それが原因で事件は起こります。

1944年8月22日夜に、アメリカ軍の潜水艦ボーフィン号の発射した魚雷によって撃沈されました。
疎開学童783名を含む1,484名が死亡しました。
緘口令が布かれたが、手紙が届かないなど不信に思った親族により事件が明るみに出ました。

少年兵(鉄血勤皇隊、護郷隊)

沖縄では14歳以上の少年は「鉄血勤皇隊」として防衛召集されました。
防衛召集は、17歳以上の男子が召集対象であったが、一部地域のみ防衛召集の対象年齢が引き下げられました。沖縄県、奄美諸島、小笠原諸島、千島列島、台湾などが対象になりました。
「志願」兵ですが、「事実上の強制」での「志願」で1780人が招集されました。
戦死者は567名です。

任務は陣地構築、伝令といった小間使いでしたが、やがて戦車への「斬り込み攻撃」を命じられます。
「斬り込み攻撃」とは木箱に10キロの黄色火薬を入れた「急造爆雷」を背負って戦車に体当たりして爆破する「自爆テロ」攻撃でした。人間「特攻隊」のようなものです。

また「護郷隊」と呼ばれる少年兵も組織されました。主に「やんばる」と呼ばれる北部地域において擲弾筒や小銃でゲリラ作戦を展開しました。800~1000人の少年が「志願」として召集され、そのうちの162人が戦死しました。

ひめゆり学徒隊

1944年12月に看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校沖の教師・生徒で構成された組織の通称です。他にも「白梅学徒隊」「なごらん学徒隊」など8つの学徒隊が存在しました。

米軍の沖縄上陸前に、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名が、沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護要員の学徒隊として動員されました。

戦争が激化し、病院には大量の負傷兵が送り込まれ、キャパオーバーを起こします。
米軍が迫ってきた、5月25日、回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして、病院を伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜むことになりました。壕に二段ベッドを置いて患者を寝かせました。この際患者を収容する壕が確保できなかったために、多少動ける負傷兵は原隊への復帰が命じられました。
米軍の攻撃にさらされる中、6月18日にひめゆり学徒隊に対し突然解散命令が出されました。
翌日、一つの壕が米軍の手榴弾により、大半がひめゆり部隊に多くの犠牲者を出し、脱出した多くの者も銃撃や爆破で命を落としました。また荒崎海岸で10名が自決しました。
最終的には教師・学徒240人のうち136人が犠牲になりました。

出典: http://wol.nikkeibp.co.jp

ひめゆり部隊の女学生

集団自決

慶良間諸島や沖縄本島各地では「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓により、沖縄全域で少なくとも1千人近くが「集団自決」に追い込まれました。

チビチリガマ

中でもチビチリガマの集団自決は象徴的な話です。

3月末から激しい爆撃があり読谷村の住民は近隣の者、多くはいくつかの親類で集まってガマで寝起きするようになり、チビチリガマには140人近くがいた。4月1日読谷村に上陸した米軍はチビチリガマに迫った。ガマの入り口に米兵が現れるとガマの中にいた3人(後述の従軍看護婦であった25歳の女性を含む)が竹槍を持って外の米兵に向かって行き2人が死傷した。外が米軍でいっぱいであることがわかりガマの中がパニックになると、南方帰りの在郷軍人(満期除隊した高齢の男性)がサイパンではこうして死んだといって、布団に火をつけて窒息死しようとした。だが4人の女が止め火を消した。ガマの中は騒然となった。4月2日米兵がガマの中に入ってきて投降を呼びかけ投降勧告ビラを残していった。 米兵が去った後、在郷軍人が「見たらいかんよ」「誰も見るな」と言いながらビラを人々から取り上げて回収すると、ガマの中に「もうどうにもならない。終わりだ。」と動揺が走り自決が始まった。在郷軍人が「だから昨日死んでおけばよかった」と言って再び火をつけたが、また4人の女が消した。従軍看護婦であった25歳の女性が、中国戦線で中国人住民がいかにむごく殺されたかを語り、死のうと言った。彼女は毒薬を持っており注射器でそれを家族親戚15人ほどに注射して人々は死んでいった。周囲の人は「あんなに楽に死ねる」と言ってうらやましがった。再び布団に火がつけられ、ガマの中はパニックになった。ガマでは84人が死んだがその半数は12歳以下の子どもである。 数十人はガマを出て米軍に投降した。ガマを出たとたん米兵に大歓迎を受けたと感じる者も殺されるのではないかと思っていた者もいた。なお、同じ読谷村内でもチビチリガマがら600m離れたシムクガマに避難した約1000人は英語の喋れる男性の誘導で1人も死ぬことなく投降した。こうした経緯は1983年ころまでまったく明らかにされなかった、それは率先して死のうと言った者も、その結果死にたくないのに死んだ者も、またその恨みを持つ者それぞれが同じ集落内の隣人や近親者であり、この「集団自決」の忌まわしい記憶を呼び覚ます事に強い抵抗があったからである。

2017年9月には、少年4人組が「肝試し」としてチビチリガマを荒らす事件がありました。ガマの入り口の看板が引き抜かれ、「世代を結ぶ平和の像」の石垣が破壊され、内部の瓶やつぼ等が割られて散乱し、平和学習で訪れた中高校生による千羽鶴が引きちぎられて放り出され、遺骨が集められている部分も荒らされました。
少年たちは歴史については殆ど知らず、悪ふざけだったようです。

出典: http://dechisoku.com

チビチリガマが荒らされた跡

連合軍、日本軍兵士による住民殺害

米軍により多くの一般市民が殺されました。
沖縄本島に上陸したアメリカ軍は日本軍の激しく抵抗に苦しみました。
やがて一般市民も無差別に殺害するようになりました。

特に前田高地四日間の戦闘は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいもので、大半の住民も巻き添えになり死亡しました。
また米軍は一般市民にスパイ容疑をかけて、男が皆殺しに遭うなど多くの人が「処刑」されました。

日本軍による直接的な住民殺害もありました。

具体的な事例として、久米島守備隊住民虐殺事件(22人死亡)、渡野喜屋事件(35人死亡・15人負傷)、名護市照屋忠英学校長殺害[358]などが挙げられる。日本軍により殺害された住民の総数は明らかではないが、安仁屋政昭は1,000人と推定する見解

具体的な体験談も太田元知事によって語られています。

「沖縄の住民が食料を持っていると、兵隊たちがすぐに奪い取っていったんですね。『俺たちはわざわざ遠いところから沖縄を守るためにやって来た。だからお前たちは食料を出せ』と言って。出さないと射殺して奪うということもありました。 そして沖縄戦では、住民は沖縄語による会話が禁じられていましたから、標準語を話せない高齢者たちが大勢、スパイだとして日本軍によって殺害されました。一番みじめだったのは、壕の中には赤ちゃんを抱っこしている女性たちもいるわけですね。そうすると、小さい子どもが泣くと、兵隊は『それを外に出せ』と。出さないと銃剣で刺殺したりしました」 沖縄には、字誌(あざし)という公刊物がある。字(あざ)とは村よりも小さい単位を言い、ほとんどの字が戦争の記録を綴った字誌 を出している。大田さんは今、それをまとめる作業を進めている。 「そこには、われわれ戦場にいた者さえびっくりするようなことが、はっきり書かれています。旧日本軍が地元住民を何人殺したということが、何月何日の何時ごろ、どういう階級の日本の兵隊にどのように殺されたのか。被害者の名前もはっきり載っています」

太田元沖縄県知事 「鉄血勤皇隊」として召集された経験より

戦争マラリア

八重山諸島や宮古島では古くからマラリアの発生する地域がありました。
太平洋戦争では、これらの地域では沖縄戦のような地上戦は行われずに空襲や艦砲射撃による攻撃を受けました。一部地域では住民の疎開が行われましたが、そこで多くの人がマラリアに罹患し、多くの死者を出した。「戦争マラリア」といわれます。八重山や宮古島は直接の戦争被害よりマラリアでの犠牲者が多かったのです。

沖縄戦は太平洋戦争にどう影響を与えたか

日米が大戦力を投入し互いに大損害を被る事となった為、沖縄戦の決着が着く頃には両陣営に厭戦気分が高まり、終戦に向けた具体的な動きを後押しする事となりました。

日本側は陸海軍、政府、昭和天皇も含め全て、沖縄戦で総攻撃が失敗に終わったことやナチスドイツの降伏もあり「戦争継続は困難」と判断し、太平洋戦争の終戦へ動き始めます。
アメリカ側も短期決戦の予定だった沖縄が長期化し、大きく戦力を失ったことから、本土決戦になると、「日本人は狂信的な呼びかけにも応じ」て、さらに被害が大きくなると予想されたことから終戦へ向けて動き始めます。

ただこの沖縄戦の激戦は原爆投下を正当化する口実にも使われてしまいます。

「沖縄戦はアメリカ軍と日本軍の交戦の中でもっとも苛烈なものであった、沖縄の占領に莫大な人的、物的代価を払ったことが、原子爆弾の使用に関する決定に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない事である。アメリカの指導者たちは、アメリカ軍が日本本土に接近するにつれて人的損失が激増する事に疑問をもってはいなかった。沖縄での経験から、アメリカの指導者たちは日本本土侵攻の代価は高すぎて払えない事を確信していたのである。」

イアン・ガウ教授

沖縄戦の歴史認識の論点

歴史学者の中では、アジア諸国に関する歴史認識ほどは、食い違いはありませんが、いくつかの点では論争があります。

集団自決が軍の強制か否か

文部科学省は2007年3月、教科書検定で以下の様な修正意見を出しています。
この修正意見と、修正後検定が通った教科書の表現が、政府の現在の見解だと認識して良いのでは無いでしょうか。

つまり「軍の関与で集団自決に追い込まれたのは事実だが、『強制』だったとはいえない」

 委員会の発表によると、「集団自決」について「住民から見れば、当時のさまざまな背景・要因によって自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる」とする一方で、「軍の命令により行なわれたことを示す根拠は、現時点では確認できていない」との見解を示した。また、沖縄戦全体については「軍官民一体となった戦争体制のなかで地上戦が行なわれた」という見解を示した。 「集団自決」の見解を受け、軍の強制を明記していた5社7点の出版社は、再修正をせまられた。  三省堂は「日本軍に『集団自決』を強いられた」を「軍の関与によって集団自決に追い込まれた」に、東京書籍も「集団で『自決』を強いられた」から「軍によって『集団自決』に追い込まれた」と修正した。実教出版は「日本軍は(中略)手榴弾で集団自害と殺し合いをさせ」から「強制的な状況のもとで、住民は集団自害と殺し合いに追い込まれた」という記述に変更した。

日本軍は沖縄住民を守ったのか

惠隆之助氏は日本軍は沖縄住民を命がけで守ったと主張しています。

帝国海軍は、内規として、戦闘艦に一般住民は乗せてはいけないことになっていました。ところが、沖縄戦が始まるギリギリまで、海軍の艦艇が港に横付けして、一般の婦女子を乗せて高速で九州に向かったという史実があります。これは救助された人達が証言しているんです。  一つ紹介します。私が懇意にしている、真喜志(まきし)文子という79歳の老婆がおられます。この方の話を聞きますと、父母を疎開させるために那覇港に見送りに来たら、水兵がたくさん艦から降りて来て、「艦長命令です! 全員乗ってください。まもなく米軍は上陸します」ということで、そこにいた人力車の車夫から、労働者まで、かたっぱしから三隻の艦艇に乗せられたそうです。そして、那覇港を出たら高速で「之の字運動」を繰返しながら熊本の三角港に入った。その結果、この一家は全員助かっているのであります。このように帝国陸海軍は、米軍が上陸する沖縄戦の直前まで、住民の疎開に死力を尽くしたわけであります。  そして、米軍が上陸して来た。米軍は本島中部に上陸し、南下した。帝国陸軍も本島南部で決戦をするつもりでおりました。沖縄本島が分断されたものですから、もう本島北部山岳地帯への疎開も不可能になりました。この時どうしたか。沖縄の新聞や朝日新聞は、軍は住民を保護しなかったといっているんですけれども、救助された老婆が証言しております。私がお話しているのは全部証言にもとづいておりますので、いつ左翼から攻撃されても十分切り返すことができます。 どういうことかといいますと、沖縄県の首里・那覇は人口密集地だったんです。そこは、本来なら沖縄県の警察が避難誘導をするべきだったんですね。ところが、警察官は逃げていないものですから、憲兵が各家を一軒一軒回って避難誘導したんです。そのことを富名腰(ふなこし)ツルさんというお婆ちゃんが今から10年前に証言しています。「自分の家で死ぬのが本望です」といったら憲兵に叱責されたというんですね。「死に急ぐな! 生きることを考えなさい」といって説諭され避難壕に誘導された。その憲兵は避難住民に兵糧まで配給し、「勝利の日にまた会いましょう」といって敬礼をして、そしてまた戦場に戻って行って戦死されたそうです。

太平洋戦争終結後の沖縄

終戦後も、沖縄の人々は苦難の日々を送ります。

民間人収容所、アメリカ兵による蛮行

終戦前後、無法地帯となった沖縄では米軍兵士による強姦や略奪などが多発しました。
捕らえられた住民は「キャンプ」といわれる「民間人収容所」に入れられ、食糧や衣服、テントなどが支給されましたが、食糧は不足し、衛生が悪く、マラリアや栄養失調などで多くの犠牲者が出ました。
1945年10月から原住地への帰還が始まります。
しかし、すぐに次の苦難に立たされます。

出典: http://heiwa.yomitan.jp

民間人収容所

植民地支配

アメリカ軍は演習地や補給用地、倉庫群などの用地として、次々に集落と農地を強制的に接収していました。いわゆる「銃剣とブルドーザー」で、集落ごと破壊され、住民は土地を奪われ退去させられます。
1956年6月9日の「プライス勧告」では、それが正当化されます。
度重なる運動への弾圧もあり、反米感情は高まり、島ぐるみ闘争にまで発展しました。

その後、ベトナム戦争に在沖米軍基地が使われ、爆撃機の離着陸が行われたこともあり、反省復帰運動が高まります。日本政府も見過ごすことができず、佐藤栄作首相の沖縄訪問やニクソンとの返還に繋がります。
1968年、嘉手納飛行場でのB-52爆撃機の墜落事故、1969年のVXガス漏れ事故などあり、反米運動は高まり、一部が暴徒化して1970月12月、旧コザ市(現在の沖縄市の一地域)で米軍車両数十台を焼き払う、いわゆる「コザ暴動」が発生しました。

出典: https://ameblo.jp

銃剣とブルドーザー

出典: http://heiwa.yomitan.jp

コザ騒動

今の平和基地反対運動について「暴力的」という動画や言説が流布していますが、過去はもっと激しい抵抗運動がありました。

返還

1969年の佐藤、ニクソンの日米首脳会談で、日米安保延長と引き換えに、沖縄返還が約束されました。
しかし内容は、県民の期待とは裏腹に米軍基地を県内に維持したままでの返還でした。
1972年5月15日に日本に復帰しました。
ただ沖縄県民は「日本国憲法」の下に入れることを喜びました。

出典: http://blog.goo.ne.jp

佐藤ニクソン会談

終わらない沖縄の戦争

沖縄返還は実現しましたが、現在も7割の米軍基地が沖縄県に集中し、沖縄本島の2割弱が米軍基地です。
今でも米国ではコウモリの保護区でもやらない低空飛行の訓練を行われ、米兵が引き起こす事件や航空機墜落事故などが発生しても日米地位協定によってうやむやになるなど、課題は山積しています。

イラク戦争でも米軍基地では使用されるなど、まだまだ沖縄の「戦争」は続いています。

復帰時には、経済の「本土並み」がスローガンとして掲げられましたが、振興政策は公共事業を中心とした建設業の投資に偏り、道路や箱物ばかりが立派になったと揶揄され、県民所得は全国では高知県に次ぐワースト2位です。
しかしながら、2017年5月の沖縄タイムス、 朝日新聞などによる沖縄県民への協同調査による「日本へ復帰してよかった?」との質問に対しては、8割以上が「よかった」と答えています。

沖縄戦を描いた作品

沖縄戦を描いた作品は日米様々な物があります。

出典: https://blogs.yahoo.co.jp

ひめゆりの塔

何度もリメイクされている、昭和の名作映画です。

出典: http://rooftop.cc

ハクソー・リッジ

前田高地の激戦を描いた米国映画です。

出典: https://www.amazon.co.jp

沖縄ノート 大江健三郎

米軍の核兵器をふくむ前進基地として、朝鮮戦争からベトナム戦争にいたる持続した戦争の現場に、日本および日本人から放置されつづけてきた沖縄。そこで人びとが進めてきた苦渋にみちたたたかい。沖縄をくり返し訪れることによって、著者は、本土とは何か、日本人とは何かを見つめ、われわれにとっての戦後民主主義を根本的に問いなおす。(AMAZONより)

出典: https://www.amazon.co.jp

太陽の子 灰谷健次郎

ふうちゃんが六年生になった頃、お父さんが心の病気にかかった。お父さんの病気は、どうやら「沖縄と戦争」に原因があるらしい。なぜ、お父さんの心の中だけ戦争は続くのだろう? 著者渾身の長編小説!

出典: http://blog.goo.ne.jp

白旗の少女 比嘉富子

1945年6月に太平洋戦争末期の沖縄戦において、アメリカ軍によって撮影された写真およびその被写体となった女性、さらにその女性(比嘉富子)が自身の体験を元に執筆した小説である。
小説は、1990年にはフジテレビで、2009年にはテレビ東京で、それぞれテレビドラマ化されている。

出典: https://www.amazon.co.jp

ウミガメと少年 野坂昭如

アニメ化もされました。

BOOMの島唄はまさに沖縄戦を語っています。

沖縄戦を知る観光地

出典: http://youyou.main.jp

平和記念公園

最後の激戦のあった、南部の司令部が置かれた摩文仁の丘にあります。
沖縄県平和祈念資料館、戦没者の名前が刻まれた平和の礎などもここにあります。

出典: https://www.jalan.net

ひめゆりの塔

隣接する資料館では、生存者の証言映像手記、遺品などの展示を通して戦争の悲惨さや平和の尊さを学ぶことができます。

出典: https://www.travel.co.jp

アブチラガマ

自然の鍾乳洞です。「アブチラガマ」とは「アブ」は「深い縦の洞穴」「チラ」は「崖」「ガマ」は「洞窟やくぼみ」の意味です。
沖縄戦時、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。
軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされたといいます。
ガマでの生活も垣間見ることができます。

出典: http://simamori.ti-da.net

シュガーローフ

沖縄戦最大の激戦地の跡地です。

出典: http://webcrafts.hatenablog.com

前田高地

ハクソーリッジの部隊の前田高地も激戦区として知られます。

出典: http://carferry.majikomi.com

旧海軍司令部壕

手堀りで作られた旧海軍の地下要塞です。当時のまま司令室や作戦室などが残されています。「沖縄県民かく戦えり」の太田実司中将が自決した指令室や資料館などがあります。

出典: http://www.rose.sannet.ne.jp

対馬丸記念館

疎開に向かう児童を乗せた船が、米軍の潜水艦の魚雷に沈められ多くの児童が亡くなった事件の資料館です。子供目線で平和といのちの大切さを伝える資料館です。

戦争を繰り返さないために

ここまでご覧いただければ、沖縄新基地建設反対運動がアジア諸国の「工作」というものではなく、戦争と常に向き合ってきた状況と、戦争を繰り返したくないという意思表示であることを理解していただけると思います。

それはネットで流布する「反日」という文脈ではなく、日本人の一員であり続けたい意思でもあります。

ただ、沖縄戦を経験した世代は年々減り続け、若い世代の意識は大きく変わりつつあります。
ですが、勝者のアメリカ軍は決して幸せになっていません。
多くの人々が犠牲となり、生存した多くの人も、亡くなるまで精神を病み苦しみました。
戦勝国といえど、決して華々しいものではありません。

先人の教えをどれだけ我が事として捉え、子供や孫の世代に伝えていくか。
それは我々が努めるべきことではないでしょうか。

関連するまとめ記事

NATO
NATO

人気の記事

人気のあるまとめランキング

新着一覧

最近公開されたまとめ